久々に”徳のはなし”をしたいと思います。

不陰徳(徳を失った)をした人の晩年はかならず悪い

古川尭道老師(鎌倉臨済宗円覚寺管長。毒狼窟。昭和36年(1961)寂、90才)の言葉。
奥儀を極め、老師と言われる方でも徳を損なえば不幸な晩年を送ると言われる。


不徳とは、ドロボウをしたとか、人を傷つけるといった犯罪だけとは限りません。
もし、あなたが今、人間関係でうまくいかないようなことがあるとしたら、
もしかしたら、それも”不徳の致すところ”かもしれません。

昔のことです。
私の知り合いのおばさんは、お姑さんと上手くいっていませんでした。
90歳のお姑さんが倒れて、病院に入院していた時のこと。
そのおばさんもそこの頃、自分も病気で入院していました。
若いころからお姑さんの仕打ちを恨んでいたおばさんは、
「死んでくれればいいのに」と周りの人に話していたそうです。
願い通り、お姑さんは息を引き取りました。
すると、そのおばさんは「死んでくれてホッとした」とまた周りの人に話しました。
このおばさんの最後は言うまでもありません。
あんなに可愛がっていた息子と嫁に同じことを言われ、
最後まで安堵することなく亡くなってしまいました。


言葉は”言霊”といって、魂が宿ると言われます。
いくら徳積みをしているつもりでも、不徳をしていてはなにもなりません。
自分の発した言葉に、自分がそうなってしまった例です。

心の在り方が因果や宿命に影響を与えているとするならば、
祈ろうが、先祖の供養をしようが、坐禅をしようが、よくはならないものです。


「なぜ、私だけ悪いことが起こるの?」
「あの人はなぜ私にこんな仕打ちをするの?」
と、人を恨んでいる場合ではないのです。
又は、「神様・仏様助けてください」というのも筋が違います。

では、神様・仏様は人間に何をもとめているのでしょう。
それは、人間の学びと成長です。

「魂を浄化しなさい。心を掃除しなさい」との教えは、何も「出家しなさい。お坊さんになりなさい」と言っているわけではありません。日々の暮らしの中で、「仏性を学び、仏心・神心になりなさい」と言われているのだと思います。
社会人として、家庭人としての人となりを学び『仏心・神心』になることは、どこでもいくらでもできます。神様・仏様の教えは、そんなに難しいことではないのです。

人間は、楽なところ、楽しい時間、嬉しいことからはあまり学べないんですね。
楽なところにいれば、必要に迫られて何かを学ぼうとはしません。
嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、苦しいことから人間は多くを学び、大きく成長していくのです。
だから、神様・仏様は人間の成長を願って、試練を与えられえるのです。
試練の中身が何なのかが、今世生まれてきた宿題なんですね。


私は昔、3人目の子どもを妊娠していた時に、良かれと思ってやったことをご近所の方に指摘され傷つき、家に帰って朝から夕方まで泣いて過ごしたことがありました。これがきっかけになって、切迫流産をして入院してしまいました。
医師から「明日まで出血が続くようならお腹の子は諦めてください」とも言われ、泣いたことへの後悔と弱い自分の不甲斐なさに打ちのめされていました。その日は、お腹の子と神様との会話をした長い長い夜になりました。
その後、命はとりとめたものの、出産前に切迫早産になり再び入院。2か月間身動きが取れない辛い日々を送りました。

その子も今では消防士となり、人命救助の仕事をしています。
私も、あの時には考えられなかった保育の道に進み、保育園の園長という立場で仕事をしています。

でも私は長い間、あの時のご近所の方を憎んでいました。
しかし、神様の意図を知ったら、あれは神様が仕組んだ試練だったと気づきました。
きっと、あの出来事がなければ、命の尊さや天の意図を知ることはなかったのです。

神様はきっと、魂を浄化すること、素直な心になりどんな道も前を向いて進んでいくことを教えてくださったのだと思います。

神様は2種類の試練を与えます。
一つ目は、冒頭でお話した不徳をしている人に教えるため。
二つ目は、世の中の役に立つ人間を成長させるためです。

人間の常識は、「損か得か」「世間体や体裁」「皆がやっているから自分もやる」など、対象とするものが人間なので、本質が見えなくなることが多いです。
しかし、神様・仏様からみた常識は、「徳を積んでいるか」「心遣いや心がけが良いか」「魂は磨かれているか」です。ですから私たちが何気なくしている言動は、もしかしたら不徳になっていることもあるかもしれません。
それを教えるために、理不尽な人を近くに置くのでしょう。
それを恨んでいたのでは、また同じことを繰り返すだけです。
宿題が終わるまで、それは来生まで続くそうです。

そして、若い頃から苦労を苦労と思わず、不平不満を言わず、喜んで人のお役に立てる人もまた、試練をいただくことがあります。それは、修行のようなもので、人や世の中のために自分の『時間・お金・動力』を使うことを惜しまないように、しがらみから手を放すことを教えているのです。そして、人を無条件で愛すること。素直に、神様・仏様の教えに従うことが徳となり、そういう人は晩年に徳が返ってくるのだと思います。その徳を使って、また人を助けていくのですね。だから、徳のある人はどんどん徳が積まれていきます。

人が喜ぶ顔を見て、自分の喜びになる。
人を愛することで、自分も愛される。
人を許せば、自分も人から許される。
神様・仏様から好かれた素直な心の人間が、晩年にたくさんの徳をいただくのではないでしょうか。

徳積みの方法なんて、学校では教えてくれませんね。
でも、長く生きていれば大切なことだとわかります。
では、どうすれば子どもたちにこの大切な生き方を教えられるのでしょうか?

私の実家は神道を重んじる家でした。自分自身も若い頃から様々な経典を学び、20代の頃に奈良へ修行に行った経験もありました。でも、よく考えてみたら信心の基礎になったのは、おじいさんやおばあさんの話や、神社仏閣で聞いた”徳の話”でした。そのお蔭で、人としての”心の土台”ができたような気がします。

しかし、現代の子どもたちは、核家族で世代間交友が少なくなりました。
神社仏閣と身近に触れ合う機会もあまりありませんね。

現代はどこか心が荒んでいたり、ゆがんだ考えの人が増えました。
大人も子どもも、もっと心の話が聴ける場所が必要なのではないかと感じています。

大切なのは、宗教をすることよりも、信仰心があることだと思います。
特定の宗教を重んじるよりも、その人がどんな心で信仰しているのかが大切なのです。

家庭でも子どもに”徳積み”を教えることはできます。
笑顔であいさつすること。
お手伝いをすること。
やさしい気持ちでお友達と接すること。
植物を育てたり、動物とふれあうこと。
そんな日常の些細なことからでも心は育ち、それが”徳積み”となることでしょう。

子どもたちが心豊かに、幸せな人生を送れますように、
これからも「徳のはなし」をしていこうと思います。