昨日の続き…

昨日のブログを書いていて、「ブッタの教えを知らない子はどうなるのかな?」なんて思ってしまいました。

昨今の殺人、強盗、覚せい剤、売春などの少年犯罪のニュースを見聞きして思うのは、どうして子どもたちは、やってはいけない一線を簡単に越えてしまうのだろう?ということです。

子どもは大きくなると、親の見えない部分が増えてきます。
その時になってはじめて自分で自分を律する心が必要になってくるわけです。
ですから、幼い時期から子どもの心に、『倫理・道徳心』を植え付けさせるよう、大人がやってはいけない一線を示し、話して聞かせることが必要ではないかと思っています。


私が子どもの頃、母がテレビのニュースを見ては、
「悪いことをしたら必ずおまわりさんにつかまって、こうやってテレビに顔が出るとよ。日本の警察は優秀や。親も兄弟も、家族みんな不幸になるかい絶対に悪いことはしたらいかんよ」と、ひとりごとのように子どもたちに言い聞かせていました。

じいちゃん、ばあちゃんたちは、
「ちゃんとお天道様が見ちょるよ」
「悪さをすれば、罰が当たる」などと言って、陰で悪さをしても誰かしら見ていて、悪いことをやったことへの体裁は必ず受ける、ということを孫たちに諭していました。

そして父は、親戚の叔父が孤独死をした時、離婚して連絡のつかなくなった叔父の息子たちのことを思い、「いくら頭が良くてもダメ。頭がいいと悪さを考える。羽振りが良くても、こういう結果になる」と言って、叔父が散々自分勝手な生き方をしてきたことを諌めるように、金勘定だけでは人は幸せになれないということを私たちに教えていました。

そうやって私は、幼い頃から家族に「倫理」や「道徳心」を教わって育ってきたのだなと思います。

倫理とは、人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。
道徳とは、人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

と、辞書に載っています。
要するに、人として、絶対にやっていはいけないことはやらないということだと思います。

倫理や道徳を教えるのは、大人になってからではなかなか難しい。
子どものうちにやってはいけないことをキチンと教えて、一線を越えた悪いことをしてはならないという怖さを教えることが必要なのではないでしょうか。

今の日本の教育に足りないものが、倫理と道徳心ではないかと思います。

小学生の子育ての相談で多いのが、『子どもの自信をつけさせたい』というもの。

母親自身も自信がなく、その結果、子育てや人間関係、仕事関係に影響が出ているというのです。「自分のようにはなってほしくないから、子どもには自信をつけさせてやりたい」と切実にいう方もいらっしゃいます。

しかし、子どもは思うようには育っていないのが現実。
自信がない子に限って、内弁慶のようです。
家では親に暴言を吐いたり、言うことを聞かないと言います。
その結果、お母さんはこれではいけないと、子どもにお説教が始まります。
でも、そのお説教が子どもの心に響いていないようなのです。

さあ、どうしたらいいのでしょうか?


自信とは、結果ですね。
自信が先に立つことはありません。
好きなことや得意なことの経験を積み上げて、自信につながるのだと思います。

往々にして親というものは、子どもの不得意なこと、嫌なこと、できないことを取り上げてできるようにしようとしますが、できないダメな自分を確認させることになってはいませんか?

子どもにとって、「正しさ」よりも「好き」の方が変われるのです。

自信を付けさせたいのだったら好きなことを思いっきりさせて、親は口を出さずに見守ることも大事です。ニコニコと笑って、冗談でも言っていたらいいじゃないですか。

こんなことを言うと、「うちの子の好きなことってゲームだから、それを思いっきりさせるというのは…」という意見が出てきます。しかし、親が”毒”と思うことでも、子どもにとっては息抜きができる”薬”だったりもします。『毒も必要』という言葉もあります。悪いと思うものをすべて遠ざけても、結局は親が見ていないところでやったり、他でそれを求めようとするでしょう。

世の中に出たら、毒と思われるものはたくさんあります。それに依存することなく生きるためには、免疫をつけることも必要な時もあります。そのうち、もっと魅力のあるものが出てくるのだと思います。

子育てで必要なことは、自信をつけさせることではないのです。
好きなことや興味のあることを早い段階で見つけ出し、伸ばしていくことです。
好きなことが見つからないから、ゲームをしているのかもしれませんよ。

子どもはひとりでゲームをするよりも、友達と外で遊ぶ方が楽しいようです。
友達との関係がうまく築けないから、内にこもっていくのかもしれません。

好きなことや得意なことがある子は、友達ともうまくいっているようです。

お母さん自身も子どもだけに目をやるのではなく、自分の人生をイキイキと楽しく暮らす工夫をしてくださいね。親のイキイキしている姿を見せてほしいなと思います。

自信のなさはOKとしましょう!



教育者や保育士の方なら、一度は勉強されたご存知のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチですが、ペスタロッチの教育思想は道徳的人間の在り方であり、「人間教育」だったということをご存知でしょうか。

ペスタロッチ(1746年1月12日 - 1827年2月17日)とは、
スイスの教育実践家、シュタンツ、イベルドン孤児院の学長で、その生涯において理想の教育のあり方を思索し、直接的に子どもを教育しました。フランス革命後の混乱の中で、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事し、活躍の舞台として、スイス各地にまたがるノイホーフ、シュタンツ、イフェルドン、ブルクドルフがなどが有名。
ペスタロッチはルソーの教育思想を受け継いでおり、自分の教育理念を形成した後、それを近代の教育思想家であるフレーベルやヘルバルトなどに伝えました。そのことから、自分自身の前の時代と後の時代の橋渡しを行った人物と言われています。

私は、ルソーやフレーベルも好きですが、ペスタロッチの教育思想がとても好きです。
今に通じる「知・徳・体」の調和的発達と、弱者への配慮ある教育を提唱したのもペスタロッチです。

ペスタロッチは、教育の対象としての子どもという人間の在り方やその本性について探求し続けました。彼の著書である『探求』には、仮説的に3つの人間の状態を上げています。

①堕落的ではない自然人と堕落的な自然人に分けられる自然状態の人間
②社会的状態の人間
③道徳的状態の人間

ペスタロッチの教育目的とは、道徳的状態の人間の在り方であって、道徳的状態の人間こそが本来的な人間であると考えていました。社会的状態の人間という現世の人間を道徳的状態の人間にするのが教育であって、つまりその教育が「人間教育」だということです。

ペスタロッチの言葉
「王座の上にあっても、木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間だ」
「生活が陶冶する」
は、有名ですね。

もっとペスタロッチの勉強をしたくなりました。

数年前から、小学校でも不登校が増えていると聞きました。
不登校までいかなくても、学校に行きたくないという子もいるようです。

不登校になってからでは、なかなか元に戻すのは難しくなりますから、「学校に行きたくない」と言い出したら、子どもの話をしっかり聴いてあげるようにしましょう。

数年前、おおきなかぶ学童保育へ通っていた当時1年生の男の子が、下校中に同級生に自分の持っていた荷物を取られて道の脇に投げられ、それを拾いに危険な策の中へ入っていったという事がありました。

また、当時1年生の女の子も下校中に別の子から、荷物を無理やり持たされたり暴言を言われたりして、何度か泣いて帰ってきたことがありました。

登下校中は、大人の目がありませんからそんなことが起こっているとは、親も先生も知りません。

私がそのことを知ったのは、それを見ていた他の子どもたちからの情報でした。
いじわるをされた当の本人たちは黙っているのです。
「どうして嫌なことをされたのに、先生に言わなかったの?」と尋ねると、
「だって、つげぐちしたらもっとするぞ、っていうんだもん」ということでした。

話を聞くうちに、子どもたちだけでは解決できなさそうでしたので、子どもたちにアドバイスをしました。

・自分が傷つけられたり、安心できない約束は守らなくてもいい
・お家の人や先生にいじわるされたことを相談することは、つげぐちにはならない
・そのままほおっておくのは、いじわるしている子のためにも良くない。いじわるされた相手の子に「先生に相談する」と言って、困ったときには必ずお家の人や先生に相談すること


その後、子どもたちは勇気を出して担任の先生に相談したそうです。
担任の先生は、いじわるをした子にキチンと話をしてくれ解決しました。


しかし、すんなりおさまらない場合もあります。
何度注意してもいじわるを止めない子がいて、何度も泣かされて帰ってきた子が、とうとう学校へ行きたくないと休むようになりました。

数日後、私は子どもたちの下校時間に様子を見に行きました。
案の定、子どもたちが傘や荷物を持たされたりして、トラブルを起こしていました。
そのまま、トラブルを起こしていた子どもたちと学校へ戻り、担任の先生に下校途中で起こっていたことをお話し相談させていただきました。担任の先生がいじわるしていた子にしっかりと話してくださり、その後はいじわるもなくなったようです。

親御さんの中には、「子どものケンカに親が出るのはおかしい」と思われている方もいらっしゃいますが、小学1年生くらいだと、幼稚園や保育園では経験しなかった大きな集団になり色んなタイプの子どもたちと関わりができ、自分たちで解決できないことがあります。それがきっかけで、学校へ行けなくなる子もいるのですから、親や先生の関与がまだまだ必要な時期だと思います。

大人の目が届かないところで、いじわるをやっている子も、やられた子も、黙っていることがあります。大人に話をするきっかけがあれば、解決できる方法はいくらでもありますから、それを子ども自身が知ることが大きな問題を回避出来ることに繋がるのです。

子どもが大人に話せないことが問題であり、大人は子どもの安全地帯になってあげなければならないと思います。

大人に話せない事情は、他にもあります。
大人が聴く耳を持っていない場合は、話すことも相談することもできませんね。
まずは、「困ったことがあれば何でも聴くよ。いつでも相談してね」というメッセージを子どもに伝えることが大事なのだと思います。

ただし、いじわるをしている側の子は、自分の都合の悪いことは言いません。
子どもの話は客観的に聴くようにし、あまり鵜呑みにしないことも大切です。
疑問に思ったら、担任の先生に相談するのがいいと思います。

子どもたちがSOSのメッセージをいつでも出せること。
出してもいいんだと知ること。
信頼できる大人がそばにいることが、いじめを未然に防ぐ手立てになっていくのだと思います。

皆さんは、「つくる」という言葉をきいて、どんな漢字を思い浮かべるでしょうか?

つくるには、「作る」「造る」「創る」という3つがあります。
今日は、この3つの漢字の意味について、取り上げたいと思います。

作る
「作業」のこと。「プラモデルを作る」など。
材料が用意されていて、作り方も支持されている
つくるものの完成形もわかっています。

造る
「造形」のこと。「粘土で造る」など。
材料が用意されていて、作り方は自由
つくるものは自分で考えなければなりません。

創る
「創造」のこと。「文化を創る」など。
材料もつくり方も、つくるものも与えられていません。
その全てを自分で生み出したり、もってきたりして創っていく必要があります。


このことは、仕事にも当てはまります。

言われた事を、完成品通りにやる(作業)
言われた事を、自分なりに工夫する(造形)
言われなくても、自分で生み出していく(創造)

完成品通りに緻密な作業が必要な場合もあるし、
完成品はなくても、材料が用意されていなくても工夫を迫られる場合もあります。
起業するなら創造することが要求されますね。


発想の転換が必要

昨日のブログ「空き箱工作で知能を伸ばす」でご紹介したように、材料を自由に選んで自分で考えて”つくる体験”が、育つ過程ではとても大切で必要なことなのです。

しかし、大人は完成度の高い整っている工作(見栄えの良い作品)を子どもに求めてしまうところがあります。幼稚園の中には、親受けの良いものを子どもに作らせるところがあると聞いたことがあります。親受けする制作をしたところで、子どもの内面は育ちきれないのではないかと疑問を感じます。

それは小学校へ上がってからも続きます。
例えば、夏休みの工作。
小学校の夏休みの作品展には、完成度の高い立派な作品が並んでいます。
明らかに大人の手が入っているな、と思うものもあります。

立派な作品ですが、大人の感覚を押し付けては、子どもの発想の芽を伸ばすことはできません。下手でもいいから、もっと自由に思いのままにつくらせてあげてもいいのではないかと思います。

子どもは、考えたものを形にしていく過程で、失敗したり、工夫したり、成功したりしますが、この経験が子どもの将来の訓練になるのです。工作が好きな子は、はじめは簡単なものから作っていき、だんだん創造する遊びに発展するものです。その芽を摘まないように、夢中で遊べる環境を与えてあげることが大切なのではないでしょうか。

子どもの頃の”つくる”体験が、将来、仕事を持つようになってからの「仕事の取り組み方」にも繋がっていくのだと思います。