ストロークとは、
心理学で他の人々の存在や価値を認める言葉や行為のことをいいます。

お母さんが赤ちゃんをあやす時、胸に抱き上げ、笑顔を赤ちゃんの顔に近づけて「よしよし、いい子ね」と言ってあやしますね。こうすると赤ちゃんはとても安心したようにニコニコと笑い出します。
ストロークとは、元々は「なでる、さする」など体を愛撫する意味の言葉で、これに精神的な意味を加えたものを交流分析では、「ストローク」といいます。

私たちは毎日多くの人々と生活する上で、他人に認めてもらいたいという基本的な欲求を持っています。そのため、他人からほめられたり、励まされたりすると心地よい気分になります。反対に言えば、ストロークがないと私たちは生きていけないのです。

ストロークには、「プラスのストローク」と「マイナスのストローク」があり、【無条件】【条件付き】をつけると大きく分けて4つのストロークがあります。
無視されたり、相手にされなかったりするくらいなら、「嫌な反応(マイナスのストローク)をされるの方がまし」と思う人もいるくらい、人は他人のストロークを求めているといわれます。


ストロークには、『条件付きストローク』と『無条件ストローク』があります。


『条件付きプラスのストローク』とは?

相手がある条件を満たしている限り、相手を認め、好ましいと考える。
子どもの躾に対して、よく用いられるストローク。
「お行儀よくする子は、ほめてあげる」等。

その人自身ではなく、その人のした行為や結果に対して投げかけた言葉です。
投げかけられた人は、その言葉を通して「いい」「悪い」等の判断基準を身につけていきます。

一般的に、プラスのストロークは、温かい心の触れ合いをいい、相手に幸福感と喜びを与え、自らの存在に意味を感じさせます。しかし、「条件付きのストローク」ばかり与えると問題です。

反対から言うと、条件がクリアできなければ誉められないということですから、子どもの頃から条件付きプラスのストロークで育てられた場合、子どもは誉められようと頑張りますが、頑張っても頑張っても、条件をクリアしなければならないので、息が詰まってしまいます。そして、この条件をクリアできなければ自分は愛されないと思い込んでしまうことがあります。

そして、これが癖になってしまうと大人になってからも、愛されるため、認められるために、自分から条件をつくり頑張りすぎる傾向があるようです。また、そのような人が親になった場合、自分が条件付きストロークで育てられたように、自分の子どもにも条件付きでなければプラスのストロークをあげられなくなってしまいます。


≪条件付きプラスのストローク≫

・100点を取ったら、お小遣いをあげる
・ご挨拶できたから、誉めてあげる
・素直だから、好き
・お手伝いをしたら、ご褒美がもらえる
・言うことをきいたから、抱きしめてあげる
・受験で志望校に合格したから、旅行に連れて行く
・良い子にしていたら、お小遣いをあげる
・やさしくしてくれるから、あなたが好きだ
・目標を達成したから、優秀な社員だ
・君は人一倍働くから、気に入った


ちょっと考えてみてください。

もしも、自分が条件付きプラスのストロークでしか認められなかったら、あなたはどう思いますか? これが続くと、自分はどうなってしまうと思いますか?


あなたのお子さんが、「相手の要望に頑張って応えなければ、幸せに生きることはできない」と学習してしまったらどうしますか? 子どもはどうなってしまうと思いますか?


心から幸せを感じることは、とても難しくなってしまうかもしれませんね。
私は、そのような子どもたち、青年や大人になって生きづらくなっている人の話をたくさん聴いてきました。その人たちの本音は、「無条件に愛されること」だったんですね。


無条件のプラスストロークとは?

相手の存在そのものを無条件に認め、好ましいと考えている。
仲の良い恋人などに対してのストローク。
何ら報酬を期待しない無償の愛。
「あなたといるだけで、幸せよ」等。


子どもが生まれたときのことを思い出してみてください。
初めて我が子を抱いたとき、条件付きでないと愛せませんでしたか?

そうではなかったはずです。

「無事に生まれてきて、本当によかった」
「生まれてきてくれて、ありがとう」

と無条件の愛で包んでいたと思います。

それが1~2年もすると、
「~できたから、お菓子をあげる」
「××できないと、誉めてあげない」
となってはいませんか?

『子育て』というのは、『習慣をつける』ことにあります。
親の考え方やストローク一つで、子どもの習慣づけが決まるといっても過言ではないのです。

自分が子どもに与えてきたストロークを振り返ってみてください。
条件付きストロークが多い人は、お子さんが生まれた時のことを思い出してみましょう。


子どもが生まれる前は、「五体満足で生まれてくれればいい」と親ならば誰もが思ったことだと思います。そこに子どもに対する過剰な期待はありません。
しかし、一年も経たないうちに、あれができない、これが遅いなど、あれこれと心配したり、期待したり…。

昨今では、情報があふれていて、早期教育をやらないと遅れてしまうような風潮もあったりします。

確かに、0歳児の脳は急速に発達することには間違いありません。
「子どもの能力を幼児期に高めることで人生を豊かに幸せに過ごして欲しい!」と願うパパママが増え、幼児教室などに通わせていると聞きます。幼児教室では、文字・漢字・言葉・数・図形などをパズルやタングラム、フラッシュカードなどの教材を用いて学習させているようですが、一方では早期教育による子どもへの弊害も指摘され始めています。

今日は、早期教育の利点と弊害について、考えてみたいと思います。

人間の脳は、無数の神経細胞(ニューロン)から成り立ちます。
このニューロン同士を結合させる結合部分はシナプスと呼ばれ、このシナプスの数が多いほど人間の運動能力・記憶力・創造力・理解力が優秀になると言われています。
またシナプスは0歳から3歳までに8割、6歳までに9割、12歳までにほぼ10割が完成すると言われています。これが、乳幼児から学童期の育ちがとても重要だと言われる所以です。

ではどうすればシナプスは増え、子どもの能力は伸びるのでしょう?
実は、「うれしい、楽しい、面白い」そう感じることのできる体験や経験がシナプスの数を増やし、素晴らしい能力を開花させるのです。つまり早期教育を受けなくても、楽しく様々な体験を積んでいる子の脳は、自然に賢くなるというわけです。

保育園や幼稚園を選ぶときに絶対に見てほしいところは、先生と子どもの表情です。
そこの園が明るい雰囲気かどうかは、そこで働く先生たちが元気で生き生きとしているかだといっても過言ではありません。保育内容がマンネリ化していないか、園長先生が積極的に保育に関わっているか、先生たちの人材育成に積極的な園であるか、必要な遊びの展開ができる園であるか…。
つまり、子どもの脳を開花させる保育・教育を実践しているかが重要なのです。
これは、大規模園か小規模園かは、あまり関係がありません。

子どもの脳を発達させるには、文字や数字などの特定の知識を詰め込むのではなく、感情を豊かに育み、本人に多くの経験をさせることが大切です。


それでは、文字や数字などの特定の知識を詰め込む早期教育には、一体どのような弊害があるのでしょうか?

自然な脳の発達を阻害する
早期教育により知識のつめこみを行うと、「自然な脳機能の発達を阻害してしまう恐れがある」と言われています。脳が未成熟なうちに情報を詰め込むことで、本来発達するべき「感情」や「個性」を育む脳の活動が損なわれてしまう可能性があるそうです。

情報のインプットばかりせず、いろいろな体験をさせましょう。
シナプスは愛情、肌の触れ合い、会話などの受け答えを伴うコミュニケーション、適度な音楽や運動などの刺激、お手伝い、外遊び、自然体験などにより増えていきます。

コミュニケーション能力が育たない 
早期教育に時間をとられると、子ども自身が自発的に外に出て友達を作り、ケンカをしながら共同作業を行っていく本来の「遊び」が減ってしまいます。
この自発的な友達との遊びが減ることで、コミュニケーション能力の発達を阻害してしまう恐れがあると言われています。

「早期教育のお教室で遊べるから…」と思うママも多いと思います。
しかし、早期教育の遊びは一方通行の遊びが多いため、コミュニケーションを伴わない孤独な遊びの時間となりやすいのです。

つまり早期教育は、幼児期に学ぶべきコミュニケーション能力が育つことを期待できない場合が多いと言えます。

公園に連れていったり、お友達を呼んだりして、子ども同士で遊べる機会を多く持たせましょう。その際に親が口を出し過ぎたり、無理強いせずに、子どもの自発的な意志を大切にしてほしいなと思います。

「つまらない」は悪いことではありません。友達を作りたいという意欲に繋がり、幼児期の集団生活の礎になります。集団生活を通して自発的に考える力、物事を正しくとらえて判断する力、想像力や感受性などを育むことが将来の様々な能力を伸ばすことに繋がります。親や先生が意図的に子どもを楽しませてあげるのではなく、子どもの意思で楽しむことを見つけられる環境にするよう工夫してみましょう。

自己肯定感が育まれない
自己肯定感とは、「自分はかけがえのない大切な存在だ」と自分の存在を肯定できる気持ちのことです。子ども時代に「自己肯定感」を育むことは最優先にすべき教育と言えます。なぜなら自己肯定感こそが人間の生きる基盤、生きる意欲となるのです。
ところが早期教育で自己肯定感を失くして自分を愛せない人間に育ってしまうと、他人を愛することも他人に愛されることも難しくなります。

早期教育を受ける子どもたちは、楽しくて、喜んでプログラムに取り組むことが多いです。それはできることを親に褒めてもらえるからです。では逆に、子どもが親の期待に応えられない場合、子どもはどう感じるのでしょう?

目の前のプログラムがこなせない、要求されている答えが導き出せない。そんな時にママの溜息やパパの困った顔を見て、子どもは悲しみ、自己肯定感を失ってしまいます。そして、親の期待に応えることや良い評価を得ることだけが大切だと勘違いしてしまい、自分の存在そのものが素晴らしいという、本来持つべき自己肯定感を育むことが難しくなります。
その結果、大きくなって学習意欲を失ったり、中には自分をわざと傷つけてしまう子どもたちもいるそうです。


子どもに過大なストレスを与える
早期教育により常に知識を詰め込まれ、親の期待に応えることを要求されると、心も体も未発達な子どもにとっては大きなストレスになります。その結果、疲れやすくなったり、頭痛がしたりという症状を引き起こし、重い病気を発症してしまう可能性があります。また、人格形成にも影響を及ぼします。

常に緊張状態でいることを強いられた子どもは、良い結果を出そうと頑張り、自分の意思に関係なく交感神経を活発にさせて、体が興奮状態になります。長い時間興奮状態を維持することで、血管が収縮して血液の巡りが悪くなると、脳に酸素が供給できず、脳の正常な発達が阻害されてしまいます。

脳の機能の発達が阻害されることで、突然奇声を上げたり暴れだす「キレやすい」人格が形成されてしまったり、自傷行為をくりかえす危険性も…。

幼児期には自分の意思を表現できませんし、表現できても大好きな両親から与えられたものには「イヤ!!」とは言えません。
だからこそ、親は子どものストレスのサインを見逃なさいように注意することが必要なのです。

気を付けたい幼児のストレスサイン
・疲れや無気力な行動
・下痢や腹痛、嘔吐やめまい、頭痛などの身体症状
・チックやどもり
・おねしょや頻尿
・気管支ぜんそくや円形脱毛症
・指や物を噛んだりくわえたりする


親子の関係を壊してしまう
何もできなかった我が子が、早期教育によって目まぐるしく知識や技能を身につけていくと、親は子どもの脳の発達以上の教育を注ぎ込もうとする傾向があります。その結果、親子の信頼関係を壊してしまうことがあります。

始めは何の意思表示をしなかった子どもも、いずれ「アレは好き」「コレはイヤ」という「自我」を持ち、親から離れて自分の思い通りのことをしたいという、「自発性」が芽生えてきます。そんな時に、一方的に知識や技能をママやパパが押し付けてきたら子どもはどう感じるでしょう?
「自分のできないこと、嫌なことを押し付けられた…」そう感じた子どもは、その場で言葉や態度に表さなくても、内心親への信頼を失ってしまいます。ひどい時には、親子の絆が修復困難なほどに壊れてしまうこともあるのです。

幼児期の親子の信頼関係は、その後の人間関係の基礎となるものです。
子どもの信頼を失うことがないように、子どもの発達に見合った、子どもの個性にあった子育てや教育を見極めていくことが肝心です。

早期教育が親に与える弊害
「親が選び、望んだ将来が、子どもにとっての幸せであるとは限らない」
そんな当たり前の思考を親から奪ってしまう…。それが早期教育が親に与える弊害です。

早期教育を行うことによって一定の成果を得られれば、さらなる上を目指してしまう親の欲望。他の子どもよりも上を目指そうとする親の競争心。
それが子どもを追い詰め、親子関係を悪化させ、間違いに気づいたときには子どもは心に大きな傷を負い、親は多額の教育費を使っていた…というケースもあります。

親としか社会とつながるすべを持たない幼児は、早期教育が親に与える弊害をダイレクトに自分のものとして引き継いでしまいます。概ね早期教育の弊害は、大きくなってから出てくるようです。

やはり子ども時代は、異年齢の子ども達の中で様々な体験・経験をしながら、面白くて楽しい笑顔いっぱいの時間を過ごすことが一番幸せなのかもしれませんね。

そのことを心において、子どもの育ちを応援していきましょう。

仏教に『本来無一物』という教えがあります。
「無一物中 無尽蔵 花あり 月あり 楼台あり」
無一物の中にありとあらゆるものがあるという意味だそうです。

無一物(むいちもつ)とは、「何一つ所有していないこと」という意味です。 
例えば、お日様、月、青い空、鳥のさえずり、野に咲く花など、
自分の物は一つもないけれど、
ありとあらゆるものが、その中にはあるのです。

家族や子どもも同じ。
わが子ですが、自分のものではない。
親や兄弟、夫でも、自分のものではないのです。

土地や家も自分で買ったものだけれど、
自分のものだと誰が決めたのでしょう。
地上にほんの少しだけ、スペースを借りて住んでいるだけです。

私は若いころ、恩師に”すべては借りもの”だと教わりました。
わが子が授かった時も、「わが子とは、自分が親になるための勉強をするために神様が命をお預けになったのであって、自分の持ちものではない。だから、社会に貢献できる自立した人間に育てさせてもらい、社会にお返しするのだ」と教わり、当初からこのことを頭において、4人の子どもを育ててきました。

今の親御さんたちの悩みを聴いていると、子どもが「いうことを聞かない」「かわいそう」という言葉がよく出てきます。わが子=自分 一心同体のような感覚になっていて、感情が先に立っているから客観的に子どもを見ることができないのだと思います。
もちろん愛情をかけて育てなくてはなりませんが、溺愛や過保護とは違います。

神様からの借りものだと思ったらどうでしょう?

この子のためにはどうしたらいいのか?
今、何をすべきか?
親として必要な判断が見えてきます。


放てば手に満つ』も同じような意味です。
「何かを捕まえようと握ると何も残らない。しかし、捕えようとしないで、手を開けば広々としていて、そこにはすべてのものがある」というのです。

水の中で、自分のほうへ水をかき寄せようとすると、水は両脇から逃げていきます。反対に水を放つように手を広げる動きをすると、水は回りまわって自分のほうへ戻ってきます。

子どもも、世の中の流れも、自分に引き寄せようとすると逃げていきます。
心を広げ、掌を広げて、わが子のためだけでなく、世の中のために働くことで、結局は自分やわが子に”徳”が返ってくるのです。

徳は逃げません。

私たちは、自分の立場にこだわって、心を閉じて手を離さないから「気がつけば何もない」という状況になるのかもしれません。そうではなく、手を開いて心を放つとありとあらゆるものが自分に入ってくるのでしょう。

目を開ければ、きれいな夜明けも見えます。
耳をすませば、楽しそうな鳥の声も聞こえます。
心を放てば、清々しい気分になれます。

何もないように見えても、すべてはもう自分の手の中にあるのかもしれませんね。

昨日、イチロー選手が4256安打を達成させましたね。
試合後のインタビューで語ったイチローの言葉に感動して涙してしまいました。


【サンディエゴ時事】大リーグの歴史の一部を象徴する数字「4256」を超えても、イチローが感慨に浸ることはなかった。「ここに ゴールを設定したことはないので、そんなに大きなことという感じはしない」。日米通算の数字をピート・ローズの大リーグ記録と比較する難しさは誰よりも分かっている。

【特集】イチロー、新たな金字塔へ~まずはローズ超え~

 次の節目は、あと21本と迫ったメジャー通算3000安打。しかし、過去29選手しか達成していないこの記録も、まだゴールではない。
 メジャーのみの安打数では、ローズの4256本とは1277本の開きがある。42歳のイチローが届く可能性は薄いが、この記録を念頭に置いた質問を受けると口調が変わり、「子どもの頃から、(夢物語だと)人に笑われたことを常に達成してきたという自負はある」と語り始めた。
 小学生の頃、毎日野球の練習をしていると、「『あいつプロ野球選手にでもなるのか』って笑われていた」と言う。それでもオリックスでは1994年から7年連続で首位打者。大リーグ挑戦が決まったときに首位打者を目標に掲げたときも、「やっぱり笑われた」。それでも2度タイトルを獲得した。
 「常に人に笑われてきた悔しい歴史が僕の中にある。これからも、それをクリアしていきたいという思いはもちろんある」。プロ25年の大ベテランになっても、はるか先に視線を向けている。
 (2016/06/16-17:09)


実は昨日、困難なことがあって少し気持ちが落ち込んでいました。
目覚めてもモヤモヤは消えておらず…。そんな時、今朝のテレビのニュースでイチロー選手がインタビューで話していた言葉を聞いて、気持ちが一変しました。「笑われてきた悔しい歴史を乗り越えてきた」という話を聞いて感動…。”やっぱりイチローはすごい!”と思いました。

普通の人なら、笑われたら頭にくるか、落ち込むか、やる気をなくすかですが、イチロー選手は子どもの時から悔しさをバネにして伸びることができた。結局は、悔しい思いをしたときに自分がどう考えて行動したかなんですね。

気持ちが落ち込んでいるときに、イチロー選手の活躍する姿や言葉を聞くといつも元気が出てきます。悔しい思いをたくさんしてきたんだろうな、それでも自分に負けないで努力を続けてきたから今があるんだな… と思うと、私も頑張ろうという気持ちになりました。

イチロー選手の考え方にすごく共感します。
私も困難に負けずに頑張ろうと思います。


イチロー選手 感動をありがとう!

あなたは、どうでもいいことに振り回されてイライラしてはいませんか?

普段、なんとなくイライラしたりモヤモヤすることって、本当に些細なことが多いですね。
なんとなくスッキリしないと思ったら、「その原因はなんだろう?」と考えてみてください。
大したことではないと気づくかもしれません。

私はイライラ・モヤモヤすることがあると、「何が原因だったっけ?」と考えます。
すると、
「あの人が言ったことが気になっていたんだ」
「そういえば、ずっとやり残したことがあった」
「朝、忙しかったから○○ができなかったんだ」 
と、必ず思い当たるところが出てきます。

原因に気づいたら、
「なんだ、大したことではない」
「なんとかなる」
「考えてもしょうがない」
と気持ちを切り替えてみます。

すると、今までイライラ・モヤモヤしていたことがスーッと軽くなる感じがします。
そのうちに、イライラ・モヤモヤしていたことも忘れてしまうんですね。


どうでもいいことに振り回されてしまうと、一日の自分のやることも思い通りにいかなくなってしまいますね。イライラしたら、自分が損をするだけです。

ずっと心がざわついていると、エネルギーが落ちてやる気がなくなってきます。
本来、自分が考えるべきことを考えるようにして、余計なことは極力考えないで、
心の浄化やリラックスを心がけて、心のゴミを溜めないようにしたいものです。

「高いところからものを見ているから、人が近寄れないのだ。
水が低いところに流れるように、人の心も低い方へ流れる。
頭を下げて低くなりなさい」


これは、私がまだ20代の頃、恩師が教えてくださった『人としての心のあり方』です。

学校でも企業でも、「(誇り)高くあれ」と教えているところですが、
私の先生は、「低くなりなさい」と教えてくれました。
”実るほど頭を垂れる稲穂かな”です。

これは、「鼻高々で物事を見ていると、人が寄って来ない。頭を下げて通らせてもらうから、人が道をあけて手を差し伸べてくれるのだ」ということなのだと思います。


私たちは一人では生きて行けません。
人に頼って、迷惑をかけながら生きています。
それなのに人の思いやりを忘れ、自分勝手で傲慢な態度や驕りがあっては、人はそんな人に近寄ろうとは思いませんし、まして手を差し伸べようとも思いません。

以前、こんな事件がありました。
プライドの高かった老人が、人に頭を下げることができずに、人からの援助も拒否して孤独死をしました。数日間、誰にも発見されなかったそうです。

他にも、ある母親がやはりプライドが高く、人に助けてほしいと言えずに八方塞がりになって、子どもを道連れに無理心中を図った事件がありました。

自分や子どもの命よりも、プライドや驕りがそんなに大事なのでしょうか?
死ぬ気になれば、頭を下げることなんて簡単です。

仏教では、命を大事にしないことが一番の悪だといいます。

驕りや高すぎるプライドは、自分の命を縮めているようなものです。
プライドにも、善悪があることを知ってほしいと思います。

全ての人は、お互い様で暮らしています。
相手が全部悪いわけでもないし、自分が全部正しいわけでもないのです。
お互いが気持ちよく暮らしていけるために、「頭を下げて通らせてもらいなさい」ということなんだと思います。


蛙の願立て

得することばかり考えて損することを考えない者や、前ばかり見て後を見ない者のこと。いいかげんな考えで失敗してしまったことのたとえ。

蛙が、人間のように立って歩けるようにと願を立て、清水寺にお参りして望みは叶ったものの、目が後向きなので歩けず、干乾びて死んだという話から。



務めていた会社を辞めたAさんのお話です。

Aさんが会社を辞めた理由は、役職に就きたくなかったからだそうです。責任のある仕事を任されれば、仕事量も増える。その割に給料は大して変わらない。要するに、このままこの会社にいても仕事ばかりが増えるだけで損だと思ったのですね。自分は資格をもっているから、他所でもやっていけると自信があったのでしょう。

しかし、実際には転職をした先では、自分よりも年下の上司から使われる立場となり、給料も前職よりも少なくなりました。それよりも何よりも、損だと思って辞めた会社が、数年後には優良企業になって成長し、業績も伸び、社員はそれまで頑張った結果、皆充実した仕事とお給料を手にすることができたのでした。

Rさんは、目先しか考えていなかった結果、人生最大とも言える後悔をしたそうです。


目先のことだけを考えない

以前、自分のことだけの損得しか考えていないような人の話を聞くことがありました。‘蛙の願立て‘です。意見をしても聞く耳がないような人には、人は反論さえしなくなります。

世間では通用しない考え方をしていても、「井の中の蛙 大海を知らず」ということさえ、気づく機会を失ってしまうのです。

結局、「世間知らずに徳は無し」なのかもしれません。
自分の心眼は、どこを見ているのか?を、‘振りカエル‘ことが必要ですね。


搦め手(からめて)とは、
「からめで」ともいい、城の裏門のことで、正面とは違って相手があまり注意を払っていない部分です。ここを攻めると、難攻不落といわれる城でも、陥落させることができるというのだそうです。


人間も同様に、真正面からぶつかるよりも意外な部分から会話を始めた方が、心を開かせることができるものです。

例えば、すぐれた経営者に「あなたの経営は素晴らしいですね」というよりも、「今日のネクタイは素敵なお色ですね。お似合いです」といった方がニコリと笑ってくれます。
営業で主婦の方に商品のご案内をしたいと思った時に、いきなり商品の説明をするよりも、
「お庭のお花がきれいですね。お花がお好きなんですね」
「お子さんはおいくつですか?うちの子と同じくらいかな?」
と全然関係ない話から入っていった方が会話が続いたりします。

初対面の人と話をするときには、その人の仕事やこれまでの経歴の情報を入手しておくことはもちろんのこと、専門外の趣味や楽しみなども調べておくと会話をはずませることができるでしょう。

このことは、相手が地位のある方ならなおさら効果的です。
仕事についての質問ならこれまでもさんざん受けていることでしょうし、わざわざその人に聞かなくてはならないことでもないです。せっかく時間をさいていただいているのですから、相手の人が興味のある事柄などから入った方が相手に受ける印象が違ってきます。結果としていい情報や本音が聞けた、ということもあります。

搦め手から攻められると、相手も拍子ぬけします。
同じように、真面目な人が人間味のあるやわらかい話をすると、そのギャップが印象に残ります。

相手が、「この人の話は面白いな、また会いたいな」と思ってくれたら、ラポール(人と人との間がなごやかな心の通い合った状態であること。信頼関係)が築けるきっかけになるでしょう。

そこから、ビジネスも始まると思っています。

こんなお話があります。

電車の中で、空き缶が一つ転がっていました。
電車が動くたび、コロコロと転がっています。
そこにいた人たちは、誰も拾おうとはしないで、
「まったく、誰だこんなところに空き缶を捨てる奴は」
「ちゃんと掃除してほしいわ」
「はやく誰か拾ってくれないかしら」
「こんなところに捨てて、迷惑な人もいるもんだ」
などと、ぶつぶつつぶやいていました。

次の駅で乗ってきた小さな子どもを連れたママさんが、転がっている空き缶に気がついて、
「つまずくと危ないね」
というと、すぐに拾いました。
そして、3つ先の駅で降りてごみ箱に捨てました。

そのママさんは、空き缶を拾うのに時間はかかりませんでした。
そして、そのママさんに声をかける人は誰もいませんでした。



そこにいた大勢の人たちができなかったことを、このママさんは一瞬でできてしまいました。
それを見て「やっと拾ってくれたよ」と思う人、
「自分が拾えなかったのが恥ずかしい」と思う人、
別に何も感じない人がいました。

どの人が正しいとか、間違っているとかではありませんが、
なかなか行動できない人と、一瞬でできてしまう人がいるということです。
どこが違うのでしょうか?

空き缶を拾うことは、そんなに難しいことではありませんね。
周りにいた人たちは、誰かがつまずくと危ないから拾わないといけないとも思っています。
しかし、人目があるところで行動するのは注目されます。「人が見ているとはずかしい」「誰が飲んだものともわからないものを拾えない」「汚いから嫌だ」「ゴミ箱がないから捨てられない」とか、いろいろ考えて行動するか迷ってしまいます。

でもこのママさんは、人の目や自分の手が汚れることなど、何も考えなかったのでしょう。
批判も言い訳もしませんでした。
ただ「つまずくと危ないから」という理由だけで行動できたのですね。

そう、行動できる人は、迷いがないのです。

このことは、どんな場面にも言えることです。
批判や言い訳をいくらしたところで、その問題は解決しないのです。
問題を解決させるためには、迷わず行動すること。ただそれだけです。

いろいろと考えて行動できないでいる人はどうしてなのか?自分の心を見つめてみたらいいかもしれません。体裁なのか、見栄なのか、損得勘定なのか…。これは、他人に対して言うことではなく、自分に向けて考える言葉です。自分にはどんな理由があって『できなくさせているのか』がわかると、いろんな場面で思い当たることが見えてくるでしょう。


批判する心を持たず、言い訳をせず、すべての人から学び、自分の意志で行動する

私たちの周りには、学ぶべき人がたくさんいます。それはなにも賢者ばかりから学ぶのではありません。小さい子どもやお年寄り、近所のおばちゃん、後輩からでも学べるのです。しかし、学んだだけではダメです。行動して初めて学んだ意味があるのだと思います。

他人も人間だから、自分と同じように足りないところがあるものです。
その足りないところを批判しても始まりません。

気がついたらあれこれ言わず、自分から行動したらいいのだと思います。
子どもたちのためにも、そういう大人の背中が見せられたらいいですね。