仏教に『本来無一物』という教えがあります。
「無一物中 無尽蔵 花あり 月あり 楼台あり」
無一物の中にありとあらゆるものがあるという意味だそうです。

無一物(むいちもつ)とは、「何一つ所有していないこと」という意味です。 
例えば、お日様、月、青い空、鳥のさえずり、野に咲く花など、
自分の物は一つもないけれど、
ありとあらゆるものが、その中にはあるのです。

家族や子どもも同じ。
わが子ですが、自分のものではない。
親や兄弟、夫でも、自分のものではないのです。

土地や家も自分で買ったものだけれど、
自分のものだと誰が決めたのでしょう。
地上にほんの少しだけ、スペースを借りて住んでいるだけです。

私は若いころ、恩師に”すべては借りもの”だと教わりました。
わが子が授かった時も、「わが子とは、自分が親になるための勉強をするために神様が命をお預けになったのであって、自分の持ちものではない。だから、社会に貢献できる自立した人間に育てさせてもらい、社会にお返しするのだ」と教わり、当初からこのことを頭において、4人の子どもを育ててきました。

今の親御さんたちの悩みを聴いていると、子どもが「いうことを聞かない」「かわいそう」という言葉がよく出てきます。わが子=自分 一心同体のような感覚になっていて、感情が先に立っているから客観的に子どもを見ることができないのだと思います。
もちろん愛情をかけて育てなくてはなりませんが、溺愛や過保護とは違います。

神様からの借りものだと思ったらどうでしょう?

この子のためにはどうしたらいいのか?
今、何をすべきか?
親として必要な判断が見えてきます。


放てば手に満つ』も同じような意味です。
「何かを捕まえようと握ると何も残らない。しかし、捕えようとしないで、手を開けば広々としていて、そこにはすべてのものがある」というのです。

水の中で、自分のほうへ水をかき寄せようとすると、水は両脇から逃げていきます。反対に水を放つように手を広げる動きをすると、水は回りまわって自分のほうへ戻ってきます。

子どもも、世の中の流れも、自分に引き寄せようとすると逃げていきます。
心を広げ、掌を広げて、わが子のためだけでなく、世の中のために働くことで、結局は自分やわが子に”徳”が返ってくるのです。

徳は逃げません。

私たちは、自分の立場にこだわって、心を閉じて手を離さないから「気がつけば何もない」という状況になるのかもしれません。そうではなく、手を開いて心を放つとありとあらゆるものが自分に入ってくるのでしょう。

目を開ければ、きれいな夜明けも見えます。
耳をすませば、楽しそうな鳥の声も聞こえます。
心を放てば、清々しい気分になれます。

何もないように見えても、すべてはもう自分の手の中にあるのかもしれませんね。

いじわるの対処法

話すことは、心を放つこと