『常識』という言葉を調べると、
「社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと」
とありました。

常識のないことをすると非難されます。
人は非常識を嫌い、皆と同じものの価値観を当たり前として受け取っています。

しかし、常識はかならずしも良識ではありません。
ましてや真理でもありません。

人間が生きていくために社会の中で衝突をさけ、楽にいきていくための方法が『常識』ということだと思います。

でもその常識は、時代や地域によって変わっていくもので、私たちが生きていく上での判断基準には、けっしてなり得ないものではないでしょうか。

常識に囚われている人は、自分に正直に生きていくことは難しくなります。

昔の常識・非常識で言えば、
「女は家庭に入って、家事や育児に専念すること」
「離婚は非常識。世間体が悪い」
と言われてきました。

しかし、今はどうでしょう?
女性が外でバリバリ働いていますし、家庭を守る主夫もいます。
様々な理由で、人生の選択に離婚を選ぶ人もいます。
現代でそれを非常識とは呼びません。

日本では、子どもの頭を撫でてヨシヨシしても誰からも怒られませんが、
インドで、子どもの頭を撫でるのは非常識。
頭には神様がいると信じられているためです。
これは宗教の違いによる非常識です。


私たちが囚われている『常識』と言われるものは、
果たして、自分が望んでいること、やりたいことなのだろうか?

私は非常識な人間かもしれません。
家庭のことより仕事を優先させています。
我が子より、他人の子の方を見ています。
良妻賢母になることより、自分に正直に生きようとしています。

そんな人間が教育・保育を語っているのですから、
世間から見たらとても非常識な人間だと思います。

子どもにやさしい言葉をかけることもしません。
反対に厳しい言葉で突き放しています。
お母さんなら、子どもにやさしくするのが常識でしょう。
でも、天から見たら、子どもを甘やかす方が非常識なことのだと思います。

だから、常識に囚われない判断をするためには、
目線はいつも天から見た自分です。

人間の自分が一生懸命まっすぐに歩いているつもりでも、
天から見たら道に外れていることは明らか、だったりします。

反対に、人から非常識だと言われても自分の信じる道を歩んでいれば、
それは天から見たら、まっすぐに歩いている場合もあるのです。

自分の姿は自分では見えません。
自分の姿を見るためには『鏡』が必要です。
その鏡はどこにあるのか?
それは、天にあるのです。

天からの目線でしか、本当の道を歩いているか、
本当の自分の生き方をしているかはわからないのだと思います。

人の目を気にして、自分の心のままに生きられないでいれば、
それはいつか『後悔』となって、自分を蝕んでいくでしょう。

私は、自分の人生を後悔したくないと思っています。
後悔しないために、自分の人生には責任を持って歩いていきたい。
責任とは、自分の人生をよりよく開花させること。
自分が生まれてきた意味はそこにあります。

神様は、人間の成長を望んでいます。
人間の常識に囚われて成長できないことは、天から見たらそれは非常識なことです。
何のために生まれさせたのか?と、神様は思うことでしょう。

だから、私は自分が成長するために、
自分の人生に責任を持って、悔いのない人生にしたいと思います。

それが、例え人間の非常識であろうとも、
何も恐れるものはありません。

男の子の育て方

よい声 よい顔 よい動き